
庭後隠士(籾山仁三郎)の説明によると断腸亭とはこのような建物だったよし:
お城よりは乾の方に当たりぬべし、牛込の片ほとり、余丁町といえるは、近き頃まで、大久保の内にして、都塵もさすがに此処までは及びがたき幽境なり。荷風先生の邸宅此の地にあり。……先生庭中に一廬を結ぶ。……小庵いとみやびたる様になりて、……心ゆくばかり閑寂の趣を尽くされたり。……新盧は六畳敷きにて、入り口の襖を開きて玄関の畳廊下に通ず。庭に面したる二方のうち、一方には梢高みに窓を開き、他の一方は、一間に壁を取り、入り口に向かい合いたる一間を障子となす。……庭よりは土縁の障子を開けて入るべし。
荷風がこの庵を造ったのは大正6年5月。2000坪もある父親の来青閣の土地屋敷は広すぎた上に家庭内トラブルも抱えていた。方丈記の真似をして此処に引きこもったのである。病気の振りをするのが好きな荷風を診断した友人の大石医師の見立てでは腸壁が薄くなっているという。それを聞いた籾山は荷風の腸はそのうち破れるだろうとからかう。それがきっかけで荷風はこの小庵を「断腸亭」と名付け、好きな秋海棠(一名断腸花)を廻りに植えて雰囲気を出す。この年の9月、荷風は41年間書き続ける日記『断腸亭日乗』を起筆するのであった。
その他、余丁町と荷風について「話の種」としてのメモ:
- 荷風と余丁町(住んでいた期間):23歳から39歳までの16年間、偏奇館時代(25年間)より短いが、市川時代(12年間)より長い。引きこもり荷風としては社会的活動も活発(森鷗外への師事、ロザリン、イデス、慶応大学初代文学部教授に就任、「三田文学」創刊、西園寺公望の雨声会、パンの会、結婚と離婚、幸徳秋水、発禁処分、父親の死去)。荷風の栄光と挫折の時代。厭世気分の高まり。
- 余丁町時代の作品:一番魅力的な作品が多い(?)、『あめりか物語』『ふらんす物語』『珊瑚集』『江戸芸術論』『四畳半襖の下張り(一)』『隅田川』『野心』『地獄の花』『新任知事』『夢の女』『狐』『深川の唄』『監獄署の裏』『紅茶の後』『掛け取り』『日和下駄』『牡丹の客』『矢はずぐさ』『妾宅』『腕くらべ』などなど、社会評論、随筆が多いのも特徴。
- 余丁町が荷風に与えた影響:余丁町の特殊性(御家人屋敷町しての余丁町、御家人の没落と困窮化、薩長新興成金と貧民の流入、監獄署、まさに荷風が嫌った明治的カオス)、一方で来青閣の庭には逃避の対象としてのフローラが、外出して社会風俗を傍観者として観察するが、逃げて帰るのはいつも大久保の余丁町、『深川の唄』『監獄署の裏』など、しかし父親に代表されるイエのしがらみからも荷風は逃げたかった、その象徴である余丁町を結局逃げ出すこととなる。断腸亭日乗はそのアリバイ作りのための書物? 売邸は以前から決めていた、二度も「余丁町こそ終の棲家と定めていた」と書いているところがわざとらしい、荷風は自由が欲しかった、そのためのお金が欲しかった
- 余丁町来青閣の売却金額は現在価値にしていくらか:大正7年の23000円、消費者物価で見ると現在価値はせいぜい2200万円、でも賃金水準の比較で考えると(当時の人の年収の40年分ぐらいで)今で言うと2億円の値打ちがあった。当時の日本人の感覚ではたいへんなお金。でも渡欧して物価が高い外国でランティエ生活を送ることができるほどの資産ではない、日本で一人なら何とかなる金額、荷風がケチになった由縁
- 荷風の「年寄りポーズ(やつし)」の意味は?:日本には「高等遊民」はいなかった、漱石も成れなかった、富豪はいたけれどもみんな忙しかった、荷風は間違いなく高等遊民、妬まれて憎まれた所以、自己防衛手段と煙幕としての「年寄りやつし」、これは余丁町で完成
- 荷風の魅力:荷風は実に多様だからいろんな読み方が出来る、最近はやっているキーワードが「老人のヒーロー」、現代日本では高齢者のひとり暮らしが増えている、男ばかりじゃなく女性の「おひとりさま」も、みんなにすがって生きるのが従来の高齢者に求められた姿、そんなの嫌だという人には荷風がたまらない、システムにコミットしていないので傍目八目で先が読める荷風的老人
- おまけ:荷風と紫式部、ドナルド・キーンは言った「キーンはあの時代の世界情勢があまりに醜悪だったゆえに「源氏物語」に逃避した、紫式部も当時の道長主導の平安貴族社会の権力闘争があまりに醜悪だったので逃避のために「源氏物語」を書いたのではなかったか」、荷風についてもそれがいえる、日本の戦前戦後の時代があまりに醜悪だったため、荷風は美しい作品と装幀と美しい(と考える)ライフスタイルに逃避したのではないか? 今荷風がまたブームになっている、これは今の時代がまたぞろ醜悪な時代になっているということの表れではないか。
2 件のコメント:
こんにちは。
ふと流し読みしていたニューズに荷風の記事がありました。
散人さんがファンであったのを思い出しましたので、僭越ながらURLをコピペさせていただきます。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090513/acd0905130954002-n1.htm
参考になれば幸いです。
どうもありがとうございました。あの時代の荷風はほんとに可哀想。本人も相当困っていたみたい。いままでのラクチン生活が破綻しやったこともない売文稼業をして食わねばならないのは身の毛のよだつ気分なりと書いてます。まあ、生活するためには誰もが働かなくてはならないのは当たり前のことなんですが、荷風の場合すでに半端じゃない老人だったからきつかった。でも荷風はめげずにがんばって戦後バカバカ儲ける。荷風はエライのです。
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